イベント報告

JASSで行われたイベント活動を参加者・運営委員の方にリポートしていただきました。
楽しく充実したイベントの様子をご覧下さい。
2016年05月25日掲載 イベント実施報告一覧へ戻る

2077 歴史散策:鎌倉幕府執権北条家夢の跡を辿る②

     
2016年05月19日(木)午前10時~。 参加者8名。 


鎌倉駅へ時間通リに全員集合。天気は五月晴れ、心地風が和む。
リニアールした段葛を歩く。段葛は源頼朝が夫人政子の安産祈願のため海から八幡宮まで参詣道して作らせたものである。新しく燈籠が左右に置かれて遠近法による道が格段に美しき見える。
最初に訪れたのは宝戒寺である。

●金龍山 宝戒寺
後醍醐天皇が開基し、円観恵鎮を開山として1335年(建武2)足利尊氏が建てと言われている。
この場所は第14代執権北条高時の邸宅として使用していたところである。秋には白いハギが咲き有名である。

●東勝寺跡(国史跡)
鎌倉幕府第3代執権北条泰時が1237年(嘉禎3)頃に創建されて北条氏の菩提寺であった。
1333年(元弘3)5月22日、新田義貞の鎌倉攻めで北条一門がここに火を放って870人余が自害をしたといわれています。隣には執権第14代北条高時の腹切りやぐらがある。ここで北条一門が終焉となった場所である。
現在ででも鎌倉市が管理のもと供養が行われています。

●妙隆寺 日蓮宗
この辺りが鎌倉中心部の宇津宮辻子の幕府跡とみられ、鎌倉第4代将軍藤原頼経が、尼将軍政子の死後、第3代執権北条泰時らとともに、幕府を大倉から中心部に移したところである。1236年(嘉禎2)約1年間、頼経、5代将軍藤原頼嗣とここで政治を行った。その後、1385年(至徳2)、日英上人を開山としてこの寺が建立されたという。2世日親上人は、室町時代の日蓮宗の中興の祖と言われました。日親上人は、時の幕府の政策に対し、室町幕府6代将軍足利義教に「立正治国論」という意見書を提出したが捕られ、焼けた鍋を頭にかぶされれるという刑(鍋を冠り日親)を受けたが、それでも布教活動に努められたいう。

●日蓮宗辻説法跡
日蓮上人は建長5年(1235),安房(千葉県)から鎌倉に来て松葉ケ谷草に草庵を建てました。鎌倉時代、この辺りは武家屋敷と商家町が混在した地域で、毎日のように訪れては法華経の功徳を説く辻説法行ったと伝えられています。
文応元年(1260)、5代執権・北条時頼に提出した「立正安国論」が原因で、松葉ケ谷の草庵は焼き打ちにされました。

●長興山 妙本寺 日蓮宗
この地は比企谷といい、1203年(建仁3)に執権北条時政に滅ぼされた鎌倉幕府の重臣比企能員(よしかず)一族が住んでいた比企一族は二代将軍頼家の後継者争いの際、北条氏を中心とした軍勢にこの地で滅ぼされました(比企の乱)。乱から逃れていた能員の末っ子能本(よしもと)が日蓮上人に帰依し、比企遺族の菩提を弔うため、日蓮の弟子日朗を開山に迎えて1260(文応元)年に創建したという。鎌倉2代将軍頼家の子で、比企能員の女母とする一幡(いちまん)が、比企一族とともに没したとき焼け残った一幡の袖を埋めたといわれる袖塚がひそりと祀られています。

●妙厳山 本覚寺 日蓮宗
「日朝さま」と呼ばれる本覚寺は1436(永享8)、一乗房日出(につしゅつ)が開いた寺です。第2世日朝が身延山から日蓮の遺骨を分けて移したことから東見延といわれています。日蓮上人が佐渡の配所から鎌倉に戻ったとき、しばらく間、滞在したと言われています。境内にある「梵鐘」は日出が上総木更津の八幡宮で論争に勝って持ち帰った言われています。今も「時」を告げています。
また、鎌倉の名刀工「正宗」の墓があります。

以上、歴史散策は無事に終えることができました。
写真を参照ください。



鎌倉八幡宮鳥居段葛から望む
宝戒寺(秋の白萩で有名)

東勝寺跡(北条家菩提寺跡(国史跡)
東勝寺川(鎌倉武士青砥藤綱が十文を落として
五十文の松明を買って火をつけて探したという)
長興山妙本寺日蓮宗
(比企一族菩提を弔うために比企能本が創建)
   
比企一族の墓
 一幡の墓と袖を埋めた袖塚
   全員集合
妙厳山本覚寺(東見延)
 (名刀工正宗の墓がある)

昼食懇談中
 
   (運営委員 伊藤 照男 記す)      イベント実施報告一覧へ戻る