令日時:令和2年11月13日(金)
行 程:
○浅草下谷神社
天平2年(720)僧行基が京都藤森稲荷を勧請した。当時は下谷稲荷と称した。
祭神は大歳神と日本武尊。
江戸時代から下谷の鎮守社として祟拝されていた。昭和3年現在地(下谷)に移った。
社殿天井に横山大観筆の墨絵雲竜図が描かれています。特別にお願いして見学をした。
第七代将軍家継の生母月光院は氏子であったため、家継公は虚弱体質であったた めに、下谷神社に将軍の健康を祈願し、正徳4年(1714)に神輿を奉納しました。しかし、残念なことに、関東大震災で焼失しました。
〇誓教寺(葛飾北斎墓)
この寺には葛飾北斎の墓〘都旧跡)がある。北斎は江戸末期の絵師で花鳥画、風 景画、美人画等に才能をいかんなく発揮した。「富樫三十六景」、「北斎漫画」、「隅田川両岸一覧」はとくに有名で、国際的な評価が高い。莢堂(さやどう)の 中の墓石は丸形角石で、正面医は草書で「画狂老人之墓」と「ひと魂でゆく気散 りしや夏の原 行年九十」と辞世の句が刻されている。
ちょうどこの寺の住職さんが庭掃除をしていて、われわれの一行を見て、葛飾北 斎のことについてお話をしてもいいかと言われ、ぜひお願いをしますと言うと、 快く貴重なお話をしてくれた。感謝して別れました。(話・紙面都合により略)
〇坂東報恩寺
建保2年(1214)親鸞の弟子性信によって開基。明暦大火後この地に移ってきた。毎月1月12日に行われる「俎板開き」で知られる。テレビで報道されるので有名。
茨城県水海道飯沼天満宮から送られてきた真鯉2匹を性真信上人の画像前で鳥烏帽 子大紋装束で四条流の料理人が全く手に触れずに生造りにする。古式ゆかしく荘 厳な儀式で天福元年(1233)から連綿と続いている。
〇源空寺(谷 文晁・伊能忠敬)
もとは湯島にあったが、1657年1月明暦の大火(振袖)でこの地に移ってきた浄土 宗の寺である。
ここには谷文晁と伊能忠敬の墓がある。伊能忠敬について記する。
伊能忠敬の墓が何故ここにあるのか。忠敬は50歳で一念発起し、暦学を20歳若い 高橋至時(たかはしよしとき)に学び、日本全国を徒歩で測量し、正確な日本地 図を作った。死後は自ら師の高橋至時の墓の隣に遺言により葬られた。
〇曹原寺(かっぱ寺)
通称「かっぱ寺」という。曹洞宗の寺で、強嶽山という。
駒込吉祥寺の末寺として天正16年(1588)に和田倉門前に移ったが、明暦の大家 で再度移転した。
この一帯は低地で、水はけが悪い土地柄であった。文化年間(1804~18)雨合羽 を商う合羽屋喜八が、通称、合羽太郎が私財を投うじて治水工事をおこない、住 民をの難儀を救ったという。
川太郎の恩義にあった隅田川の河童が大挙押しかけて工事を手づだったという。 かくして河童を見たものは商売繁盛間違しともいわれ、河童は福の神様として祀 られるようになったといわれています。
〇海禪寺(梅田雲浜墓)
平将門が常陸相馬郡に草創したのがはじめ、将門の死後、荒廃していたのを慶長 の始め(1596)に再興され、後に江戸湯島に移された。が、その後、明暦大火に より現在地に移ってきた。陸奥宗光の菩提寺でもある。
梅田雲浜は文化12年(1815)の生まれ。若狭(京都市)小浜藩士であったが、寛永 5年(1852)に藩政を批判し「海防策」を建白し、士籍をはく奪された。赤貧の うちに勤皇志士たちと交った。
徳川斉昭を将軍に就任させようと合作したりして、また、ロシア艦隊を襲い攘夷 を実行しようとして、幕府から危険人物とされた。、安政の大獄で最初の逮捕者 となり、安政6年(1859)獄舎で病死した。
以上